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旅というレース


 旅というのは博打によく似た中毒性と常習性を持っています。非常に刺激的で、さらには奥が深い。そして一度はまるとなかなかやめられず、最終的には社会生活に支障をきたしてしまう。まったく博打によく似ているのです。
 もちろん、オフタイムの余暇として、博打を趣味的に楽しむ人も数多くいます。一日に使う金額はいくらまで、使う時間は何時間まで、などと決めて、その範囲内で楽しんでいる人が私のまわりにも大勢います。
 旅も同じで、大型連休や有給休暇の組み合わせで、ボーナスやへそくりをうまく活用して、旅と社会生活と両立させている人が多く存在しています。
 しかし、オフタイムの余暇として時間や金額に制限を設けて博打を楽しめる人。彼らをさして博打打だとは言わないでしょう。ひとつのレースに有り金をすべてつぎ込む、何百万の大金を得ることもあれば、帰りの電車賃まで使い果たすこともある。それを繰り返し、浮いて、沈んで、結局は99%の人が沈没していく。そんな人々をさして、博打打と言います。
 オフタイムの余暇として時間や金額に制限を設けて博打を楽しめる人、彼らはあくまで博打が「趣味」な人々なんです。
 旅も同様で、オフタイムの余暇として旅を楽しめる人、彼らは旅が「趣味」な人々です。重症の中毒患者とは違うんです。
 重症の中毒患者は博打打と同じで、旅に時間や予算の制限などを設けることはできません。ほとんどの重症患者は、食うものも食わずに旅費をため込みます。彼らには旅をお小遣いの範囲内で楽しむなんて考えは毛頭なくて、ともかくつぎ込める限りつぎ込む。そして、無一文になるまで帰ってこない。
 何ヶ国も周遊する人、ひとつの国や場所を突き詰める人、何をするでもなくひとつところに沈没する人、旅のスタイルは様々ですが、これは単式が好き、複式が好き、といった、馬券や車券の買い方が違う程度のこと。基本路線は、つぎ込めるだけつぎ込んで、無一文になるまで帰らない、です。
 重症の旅中毒患者は、全財産をひとつのレースにつぎ込んで、帰りの電車賃も使い果たして駅のベンチで夜を明かす、そんな博打打にとっても似ているのです。旅の道中に感じるドキドキやハラハラも、博打のそれによく似ています。
 もちろん、こんな無責任な生活を日本の社会構造が許すはずはありませんから、たいがいの旅人は定職というものを持っていません。旅先では「無職」、祖国では「定職なし」、それが彼らの肩書きです。そして多くの重症患者が、旅で食っていけたら・・と思っている。しかし世の中そんなに甘くはないのが現実というもので、多くの旅人は旅先でのドキドキやハラハラと引き換えに、日本での未来を切り売りして、最終的にはほとんどの人が沈んでいく・・。
 豊かな青春、貧しい老後。
 誰が最初に歌ったのか、詠み人知らずのこの歌は、日本人に人気の安宿の壁なんかに時々殴り書かれている有名な一句です。たぶんよくよく読めばどこかに同様の英文や仏文の落書きもあるのでしょう。


 私が初めて旅に出たのは20歳頃のこと。その頃の私は旅が「仕事」で、車に家財道具を積み込んで、北へ、南へ。車の中で夜を明かす車上生活もまたたのし。名も知れぬ小さな村のドライブインで満点の星空を見上げながら眠る夜が、大好きでした。
 こんな生活の中で、私は旅をごく身近で自然なものととらえるようになっていきました。また私のまわりの人々もそうでありましたから、この生活に疑問を持つこともありませんでした。毎朝六時に起きてラッシュの電車に乗って会社に通う、それと同じことだと感じていました。
 それが25歳の春、何かに呼ばれるようにして東京に戻ってきました。そして何かに呼ばれるように父の仕事を手伝い始めました。その直後のことです。父が他界したのは・・。
 今にして思うと、父が私を呼んでいたのでしょう。
 父、享年56歳。少しばかり早い死でした。
 父の死後、私は何をするでもなく、日がな一日ぼーっとしていました。
 あの川を越えて父に会いに行きたい。
 そう思うことも度々でした。父は呑んだくれでわがまま者の厄介なおじさんでしたが、私はそんな父が大好きでしたから・・。
 そんな私を人間社会に連れ戻してくれたもの。それは「旅」でした。
 父の死から一年がたったある日のこと、ひょんなことからタイに行くことになったのです。97年6月のことでした。
 カオサン通り、チャイナタウン、ワランポーン鉄道駅、チャトウチャック広場。煮えくり返る鍋をひっくり返したようなあの東南アジアの熱気に圧倒され、私はタイを歩き始めました。
 あれから6年、父を亡くし旅に生かされてきたあの日からいくつかの季節を越えて、今私は旅を食わすために生きています。食うものも食わずに旅費をため込み、いくばくかの小銭がたまると日本を出て行く。そして小銭がなくなるまでひたすら旅を続ける。日本に戻る日はいつも無一文です。
 豊かな青春、貧しい老後。
 時々あの歌が脳裏をよぎる、そんな夜もありますが、それでも旅をやめることはできません。生きているかどうかの保証すらない未来のために今を切り売りしていくのなら、生きているという保証のない未来を切り売りしてでも生きていると確信できる今を存分に生きたい。これが博打打の幼稚な言い訳にすぎないことはわかっています。そう、博打打はみんなこう言い訳をするんです。
 けれど、飛行機が成田を離れるその瞬間に感じるあのドキドキ、そして帰りの飛行機の中で感じる次の旅への欲望。


 レースはまだまだ終わりそうにありません。





 現在スキャナ不在のため、WEB上で公開可能な画像は以下の9点のみとなります。以下の9点はすべてケータイにて撮影。

ワランポーン鉄道駅の売店。2003年1月。

パンガンのサンセット。2003年2月。

パンガンの浜にあったボロ屋。2003年2月。

パンガンで宿泊していた宿の敷地内。敷地内に川があり、木製の橋を越えてフロントまで行く。2003年2月。

パンガンの宿の子供。いつも困ったような顔をしていた。2003年2月。

パンガンの浜で。2003年2月。

パンガンの浜で。2003年2月。

パンガンの浜で。隣の宿の客室(バンガロー)外観。レンズに指がかぶってしまった・・。2003年2月。

パンガンの宿にいた猫。「豆」と名づけて親しんでいた。かなりの美形猫。2003年2月。
■旅データ
期間
2003年01/29-03/29(60日間)

旅程
成田→バンコク→ホアヒン→タオ→パンガン→ホアヒン→チャアム→バンコク→コラート→ピマーイ→コンケーン→ウドンタニー→チェンマイ→タートン→チェンマイ→バンコク→ナコンパトム→カンチャナブリ→成田


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