< home | 2003年目次 > 1_バンコク中央駅
> 2_タイ天国と地獄 > 3_混沌のアジアビーチ
> 4_カメ島へ行く > 5_パンガンに挑む
> 6_夢の終わり > 7_ハードコンタイ
> 8_赤土の大地へ > 9_恋するチェンマイ
> 10_山の子 > 11_故郷(ふるさと)
> 12_花見タイランド > 13_旅のトラブル
> 14_時代 > 15_旅というレース > |
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時代 帰国を間際に控えた3/27の午後。時間が中途半端すぎて、何もできそうにないので、ぶらぶらと何をするでもなくカンチャナブリの町まで歩いてみる。 旅が終わりに近づいてくると、こういうことがよくある。 帰国の日が近づくと、洗濯物の配分だの、捨てる荷物の配分だの、買って帰りたいものの買い出しだの、旅の前半は気にもしていなかったことが俄然気になってくる。当然のように、時間の配分も気になってくる。旅の前半なら、二〜三日どころか一週間ぐらいの予定の前後は何も問題がないのだが、帰国間際となると、そうもいかない。そこで、帰国便のフライトに間に合うように空港に移動するための時間を調整するのだが、このとき、時間に余裕を持って調整するものだから、たいがい最後は時間が余る。といって、それはまとまったことをするには短い時間で、結局は散歩だの買い物だのでつぶすことになる。 そんなわけで、ぷらぷらとクワイ川に沿って歩く。 川沿いに歩いているつもりが、通りを一本間違えて、市街地に入ってしまった。カンチャナブリに来るのは三度目だが、市街地を歩くのは初めてだった。 カンチャナブリの市街地にはこれと言った見所はない。主だった見所はほとんど町外れにある。またカンチャナブリはちょっとリゾートチックな町でもある。ここに滞在するなら、移動に便利な市街地よりも、景観のいい川沿いの宿を取りたいと思う。ゆえに今までカンチャナブリの市街地に立ち寄ることがなかった。 初めて見るカンチャナブリの市街地は、他で見たタイの町とは少し違っていて、かなり中華風であった。建物の形も中華風のものが多く、漢字の看板も目立つ。しかし、バンコクの中華街のような暗さはなく、すこんと明るい。 何だかそこは異国(タイではない国)のようで、興味深かった。 そういえば、連合軍墓地の近くには大きな華人墓地があった。そのすぐ近くには華人学校もある。 この町には華僑が多いのかも知れない。 華人の墓といえばだが、タイ人には墓がないのだそうだ。この国で時折華人の墓を見かけるが、タイ人の墓を見かけたことはない。疑問に思って先生に聞いたら、タイ人は墓を持たない、と、言われた。 タイ人は来世に転生してしまうから、墓は必要ないのだろうか・・。 その点、中国人は大変である。墓もなく死んだら、オバケになってしまうというのだから・・。 中国では、家族に見取られて死に、大量の供物を供えられて葬式をあげてもらって、墓に埋葬してもらわないと、オバケになってしまう(成仏できない)と言われていると、聞いたことがある。 ちゃんと死んでちゃんと成仏した人でも、何代か先に子孫が途絶えて墓参りに来るものが途絶えてしまうと、とたんにオバケになっちゃう!というのだから、大変だ。未婚の人(子供のない人)なんかは、もれなくオバケになってしまう。 そしてオバケは金も食べ物も持たされずにこの世を去るから、あの世に行っても生活ができなくて、あの世とこの世のはざまで腹を減らしてさまよい続ける、と言うのである。 日本風に言うところの、三途の川の渡し賃がなくて、あちらに行けない、ということなのだろうか。 そして、ふと思う。 中国には「名誉の戦死」なんて言葉はないのだろうな・・。 遠い異国の最前線で吹っ飛んじゃって、遺骨もあがらない独身の兵隊は、オバケになるしかない。 その点、来世に転生すればいいタイ人の死はお気楽である。どんなにみじめに死んだところで、来世は大金持ちに生まれればそれでいいのだ。ただし、すばらしい来世を迎えるためには、現世で徳を積まなければならないが・・。 川沿いには大量の観光船が停まっていた。どうやらここがあのカラオケディスコクルーズ(*1)の出発地らしい。 宿に戻ると、酔っ払いが呼んでいる。ハローマイフレンド、一緒に飲もうじゃないか!と、言う。酔っ払いは最初宿屋のにいさんの友人かと思ったが、この宿の泊まり客らしく、バンコクから来たという。にいさんは相変わらずのんきなもので、宿の管理なんかそっちのけでギターをかき鳴らしている。カラバウが聞きたい、と言ったら、一曲弾いてくれた。 メイドインタイランドに対抗する「ウェルカムタイランド」という歌らしい。 外国人(旅行者)はみんなタイが好きだと言うけれど、彼らが好きなのは結局のところはパッポンとパタヤ(タイの女)なんだよ。というような内容らしい。 こんな歌がヒットするのも観光国ならでは、なのだろうか。日本でこれに準ずる歌をつくれと言われたら、もれなく出稼ぎ不法労働者の歌が出来上がることだろう。そういや高田渡のヒットソングに「銭がなけりゃ」ってあったな。 >北から南からいろんな人が 毎日家をはなれ >夜汽車にゆられはるばると 東京までくるという >田んぼからはい出 飯場を流れ 豊作を夢みて来たが >ドッコイ!そうは問屋がおろさない >お役人が立ちふさがって言うことにゃ >わかってるだろが来年は勝負なんだよ! >銭がなけりゃ君 銭がなけりゃ >帰った方が身の為さ アンタの故郷へ >東京はいい所さ 眺めるなら申し分なし >住むなら青山に決まってるさ 銭があればね これを今風に焼直せば、もれなくウェルカムジャパンが完成することだろう。 午後十時をまわったころ、風呂場にゴキブリがいるからどうにかしてくれ、という西洋人の泊まり客(女)がやって来て、酔っ払いと宿のにいさんは早口のタイ語で何やらまくしたてて、大笑いをしている。 便所にゴキブリ!?そんなもので人のこと呼ぶなんて面白い女だな!というようなことを言っているようだった。こういうとき、少数言語は便利だなあ、と、つくづく思う。西洋人の泊り客はわけもわからず呆然と、ただゴキブリに怯えているだけだった。 しかし、それも宿のお仕事。 ほどなくにいさんはギターを置いて、客室のゴキブリ退治に出て行った。 今回の旅はずいぶんと楽なものだった。というのは、やはり幾度かこの国に来るうちに、この国の勝手が分かってきたのだろう。初めての町でも宿探しに難儀することもなくなり、この気候の中でも身体に負担をかけずに移動するコツもわかってきた。 だからだろう、非常に楽であったし、その割りに物事が効率よくまわってくれて、やりたかったことは一通りやれた。 しかし同時に、路線バスに乗るのにも難儀したあの頃が懐かしく、もう一度あの旅をしてみたい、とも思う。 そのためにはどうすればいいのか・・。 タイを出ればいいんじゃないかな・・? 言語も宗教も体制も異なる国へ行けば、もれなくバスに乗るにも難儀したあの頃が帰ってくるだろう。見るものすべてが珍しく、ありふれた田舎の売店ですら写真に撮りたくなったあの頃が帰ってくるだろう。勝手な勘違いのあげくに明後日の方向へすっ飛んで行ってしまったあの頃が、帰ってくるのに違いない。 渦中ではいずれもつらかったことのはずなのに、再びあの旅がしたいと思う。こうやって多くの旅人は次の国を目指して出て行くのかも知れない。 翌28日の朝、夕方六時にチェックアウトしたらいくらだと、フロントのおねえちゃん一号に聞くと、十二時を過ぎたら何時でも一泊(230)だよ、もったいないから昼までに荷物を出してフロントに置いておきな、荷物は預かるから、と言うが、チェックアウトぎりぎりまで部屋を使いたいので230払う。そこにあとからフロントに戻って来たおねえちゃん二号が、何てことすんのよ!230も取っちゃって!!!とか言って、怒っている。言われた方は、だって知らなかったんだもん、しょうがないじゃん、という感じで、謝るでもなく、ぷいと出て行ってしまった。おねえちゃん二号は宿のにいさんに電話をしているようだった。 ねえ、二号室の日本人、六時にチェックアウトしたいらしいんだけど、その場合はいくらなの? というようなことを言っている。いつの間にか、これぐらい単純な構文なら、聞き取れるようになっていた。 結局、延長料金は100らしく、130戻って来る。 ここの宿は勘定を取り忘れることも日常茶飯だが、こういうこともあるらしい。 午前中、おやじさんがうろうろしていることがある。おやじさんは宿の関係者なのか、はたまたただの近所の人なのか、よくわからない。 彼はひとなつこい人で、外国人に強い興味があるらしい。食堂にたむろしている宿泊客に、かなりぶっ壊れた英語で、どっから来たのか、どこへ行くのか、などと話しかけているのを頻繁に見かける。 そんなおやじさんの今日のターゲットは我々らしく、おやじさんは我々の席にでんと座り込み、帳面を差し出して住所と名前を教えてくれ、と言う。書き綴ると、自分の住所と名前を返し、今度はうちに泊まっていけ、何カ月だろうが何年だろうがタダだ、俺んちはここ(市街地)から二十五キロほど離れた郊外にある、とか何とか、そんなことを、やはりぶっ壊れた英語で言って、大事そうに帳面をわきに抱え込み、それじゃ俺は家に帰る、と言って、出て行った。 この国ではときどき、どこからどこまでが宿の内部の人間で、どこからどこまでが内部の人間の知人や親戚で、どこからどこまでが宿泊客なのか、よくわからないことがある。 昨日の酔っ払いだって、客だとは思わなかったし・・。 昼を過ぎたころ、写真を撮りに町に出る。昨日見た市街地や川沿いの風景を撮りたかった。 しかし、暑い・・。 今日は雲が多くて、直射日光の被害はたいしたことがないが、べっとりとまとわりつくような、嫌な暑さであり、黙って立っていても汗がじっとりとにじんでくる。 それでもとことこと、川沿いの道を行く。市街地の写真を数枚撮って、水上レストランやカラオケクルーズ船の写真を数枚撮って、橋を渡る。橋の向こう側がにぎやかだなあ、と、思ったら、橋のたもとが「河水浴場」になっていた。貸し浮輪屋もいるし、屋台も出ている。橋のたもとの日陰以外にはほとんど人がいないが、それでもえらい混雑ぶりである。 初めてタイを訪れてから、たぶん七年が過ぎた。定期的に一カ月以上訪問するようになってから、たぶん五年がたつ。 五年もたてば時代がひとつ動く。 たとえば、私が十三歳の頃、円が突然のように高騰し始める。突然の円の高騰は経済をぐらつかせ、多くの中小企業や零細企業が大変な思いをすることになる。同時に円高を機に輸入産業が盛り上がり、今まで高根の花だった舶来ブランドが一気に身近なものになった。時代はチェッカーズ全盛だった。男の子はみんな前髪をのばし、女の子はみんなセミロングの髪をくるくるに巻いて流していた。 それから五年、私が十八の頃、日本はバブル経済のただ中であった。トレンディドラマが茶の間の人気で、吉田栄作や織田裕二が女の子たちを熱狂させた。舶来ブランドはすでに高価なものではなく、生活に密着したものとなりつつあった。町を歩く女の子は今見ると全員風俗嬢かと思うほどに華やかで、厚い化粧にワンレングス、ボディコンシャスのミニのワンピ、手にはブランドのバッグといういでたち。海外旅行は一気に身近なレジャーとなり、ごくごく普通の事務員さんが、週末を利用して香港にお買い物、なんていうのも当たり前のことになった。 さらに五、二十三歳のころ。すでにバブルははじけ、世間には貧乏ブームが到来。安達ゆみの「家なき子」だの、江口洋介の「ひとつ屋根の下」だの、柳葉俊郎の「テキヤのしんちゃんシリーズ」だの、貧乏シリーズが茶の間の人気。若い子のファッションも、貧乏ドラマが茶の間をわかせた時代だけあって、けばけばしいものは姿を消して、カジュアル系へと移行する。イージーパンツ、ずり下げズボン、茶髪、ピアス・・。チープなアクセサリーを大量にじゃらじゃらとつけて歩くのが人気だった。 そして五年、二十八歳。大手銀行はつぶれるわ、大企業は合併するわ、世間は本格的な不景気モードに突入。そんな不景気をブチ壊すかのようにあらわれたのが、ギャルどもだった。ガン黒、茶髪、ルーズソックス、細眉、マスカラ、携帯電話。彼女たちは尻が見えそうなほどに制服のスカート丈をつめて、町にあらわれた。また、不景気による就職難の影響で、就職をあきらめて、放浪の旅に出ていく、バックパッカーといわれる若い旅行者が爆発的に増加する。 ・・というのはウソである。 猿岩石がやってきたのだ。若者の多くが猿岩石にあこがれて、バックパックを背負って海外に飛び出した。それまでバックパック旅行というのは大変なものであり、雪山登山のような特殊な趣味である、と思われていたのが、猿岩石の出現によって、一気に身近なものになったのである。 さらに四年、三十二歳、現在に至る。不審船騒動、日本人拉致問題、そんな緊張する日朝関係をぶち壊すかのごとくあらわれた国民的アイドルはアゴヒゲアザラシのタマちゃん。北朝鮮じゃ食えない人が大勢いて今日も大勢の人が空腹と戦いながら短い生涯を終えていくとテレビは言うけれど、多くの日本国民はタマちゃんの目尻に刺さった釣り針の方が気になって仕方がない。かくいう私もタマちゃんの方が気になる。だって朝鮮人、可愛くないし・・。 日本のコメは東京都のコメだ、そんな貴重な東京都の財産を、一粒たりとも北朝鮮人になんか食わせてやるものか。 そう言い放った知事様がおられたけど、まったく同感。ちなみにこの知事様の出現はアメリカや韓国を驚愕させたというが、若い東京都民は知事様に夢中だ。当然、東京都のコメ発言にも多くの東京都民が熱狂した。そんな知事様と知事様に熱狂している東京都民を見ていると、ヒトラーって人はこうやって生まれてきたのかも知れないと、思うことがある。 こうして振り返ってみると、五年というのは、時代をひとつ、くるりとまわすのに充分な時間なのである。そして、この国に定期的に訪れるようになってから五年が過ぎて、この国の時代も日本と同様にくるりとまわったように思える。 五年前には大都市でしか見ることのなかったセブンイレブンが地方都市や小さなリゾート地にまで進出し、五年前は高根の花だった携帯電話が十代の子たちにまで普及し始めた。インターネットカフェもわずか五年で爆発的に増加して、今ではどんな田舎でも、電気と電話線さえ届いているところなら、インターネットカフェがある。通信費用もインターネットの一般化にともなってがたがたと値を下げ、いまや五年前の十分の一ほどの料金で楽しめるようになった。また、乞食の数は減ったように感じるが、ホームレスの数は増えてるように感じる。小さな子供が金をくれと寄ってくることは少なくなったが、うちらが空ペットボトルを捨てるのをじっと待っている子供が増えたように思う。 旅行者的話題としては、五年前は西洋人ヒッピーの多かったバンコクのカオサンを、若い日本人が乗っ取ってしまった。今やカオサンは日本人通りとなりつつある。通りを行く旅行者の何割もが学生風の日本人である。西洋人や年配者には近づきがたい雰囲気の宿や食堂も増えている。そんなところにいまだ居座って、若い旅行者相手に人生語っている年配の旅行者は、さらに近づきがたい雰囲気をかもし出している。ていうか、正直言ってウザいです。 お見合いに同席したご両親の決め台詞にもあるじゃないですか、ほら。 ここは若い人たちにお任せして、アタシたちはちょっとお散歩にでも出ましょう。 って、ねえ? また西洋人おばか祭りはプーケット沖のピピを追われて、サムイ沖のパンガンに移転した。 やたらと吹っかけてくるタクシーや土産物屋は激減し、土地に通じない旅行者にも「定価」が見えてくるようになった。 こんなことを目の当たりにするたび、ああ時代がひとつまわったのだな、と思う。 また、タイの時代がひとつまわると同時に、私の時代もひとつまわった。仕事がらみでやって来たはずのタイはいつか完全な趣味になり、今はタイに食わせてもらっているのではなくて、タイを食わせるために働いている。 興味の分野もだいぶん変わった。始めのころは大衆食堂や市場といった庶民の生活から近いところにありそうなものに強い興味を持っていた。それがいつのころからか、人気の観光地やリゾート地にも興味を持つようになり、映画や音楽といったものにも興味を持つようになった。 庶民の生活に根差しているものは、旅行者の生活にもかかわって来るので、いずれはそれが旅先での日常になってしまう。観光地というのはいくらよかったといっても、そうそう何度も行きたいところではないので、いつか行き尽くしてしまうし、大衆食堂や市場というのも長い滞在になれば毎日足を運ぶところとなるので、コンビニと同じ存在になってしまう。コンビニに行くか市場に行くか、以前なら雰囲気重視で市場を選んだのだろうが、今は距離と値段で応相談である。ものや場所によってはコンビニの方が俄然安い場合もあるのだ。 だから結局、時代とともにうつろい、次から次に新作を出してくれる、映画やら芸能やらに興味を持つようになるのかも知れない。 だってアメリカの観光地をすべて歩き尽くしたとしても、アメリカ映画は毎日のように新作が出ているはずだ。 カラオケディスコクルーズ(*1) |
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