< home2003年目次 > 1_バンコク中央駅 > 2_タイ天国と地獄 > 3_混沌のアジアビーチ > 4_カメ島へ行く > 5_パンガンに挑む > 6_夢の終わり > 7_ハードコンタイ > 8_赤土の大地へ > 9_恋するチェンマイ > 10_山の子 > 11_故郷(ふるさと) > 12_花見タイランド > 13_旅のトラブル > 14_時代 > 15_旅というレース >

カメ島へ行く


 ホアヒンからパンガンまではバス(または汽車)と船を乗り継いでいくのだが、パンガンまで渡る途中にタオ(カメ)という島があるので、パンガンに行く前にタオにも立ち寄ることにする。タオはパンガンよりもさらに小さな島で、世が世ならここもまた漁業以外に仕事のなさそうな島である。
 ホアヒンを離れ、タオに到着したのは2/3の昼ごろだった。
 ちいさな波止場には大勢の、本当に大勢の客引きが来ていた。その多くはダイビングショップの客引きと、宿屋の客引きで、中には日本人スタッフの姿も見受けられた。
 おそらくパンガンもいつもはこうなのだろう。前回はあの忌まわしき白人おばか祭りにかぶってしまったから、波止場が静かだったのだろう。押し寄せる客引きの波をかき分け、波止場を出ると、道路とは呼べない、お粗末な細道に出た。しかしその両脇には、お粗末な細道には不似合いな数の商店がひしめいていた。いずれも外国人旅行者相手の旅行代理店や土産物店である。ほとんどすべての店が、英語の看板をあげている。
 この島にはわずか五年前まで電気が来ていなかったそうだ。あれから五年、さすがに電気ぐらいは届いておるのに決まっている。・・と思っていたが、いやはや、ときっていうのはいっぺん流れ出してしまうと、えらく速いものらしい。細道には不似合いな商店の中に、「セブンイレブン」を発見してしまった。いやはやはや、ときの流れ、おそるべし・・である。
 といって、私はどこぞの西洋ファミリーのおやじさんではないので、瞳を輝かせて、スネーク、タランチュラ、エレファント、ジャングラ〜ァァと叫んだりはしない。だからセブンイレブンは問題ではない。
 だけど、問題があった。
 私はちょっとがっかりしていた。
 というのも。
 だって、海の色がエメラルドグリーンじゃない・・。
 エメラルドグリーンに輝く南洋の海を夢見てここまで来たのに、この紺碧の海はなにごとか。いくら水がきれいだと言ったって、きれいな紺碧の海なら日本にもある。いやむしろ、日本の海の方がきれいだ。
 大分で見た海は本当にきれいだった。すこんと底まで抜けるように青く澄んでいた。国道何号線だかはもう忘れたが、道路が海にへばりつくようにして通っていて、あまつさえガードレールがない。ちなみにそこに「浜」はない。道路脇一ミリがもう「海の中」なのだ。うっかり居眠り運転でもしようものなら、一瞬で海の中である。おそらく年間五人以上の酔払い運転者が海に落ちているものと思われる。しかしそこをゆるりと走っていると、海の中を走っているかのような錯覚に陥る。映画「千と千尋の神隠し」の中で、千(千尋)を乗せた汽車が海の中を走っていくシーンがあったが、あのシーンを見て私は大分の「海中道路」を思い出した。
 正直、東南アジアの海はさしてきれいではない。その証拠にダイバーたちがアジアビーチに熱狂しているという話を聞いたことがない。私の経験から言っても、グアムやサイパンの方がよっぽど海の質は高かった。
 ならばせめて日本では見ることができない、あの「海の色」を見たいではないか。エメラルドグリーンに輝く、あの「南洋の海」を。椰子の並木の向こうに広がる白浜と、バナナツリーの木陰に置かれたビーチベッド。それはあのエメラルドグリーンの海があってこそ輝くオブジェであるのに・・。
 そんなこんなで、上陸早々に何だかがっかりしながら、一軒の旅行代理店に入ってみた。せめてちょっとぜいたくをしてやろうと思い、プール付きの宿はいくらからあるんだい、と、たずねると、プール付きの宿は島に一軒しかない、そこは700バーツからだよ、と、代理店のねえさんは言った。じゃあ、そこでいいよ・・と、なるまでにしばし問答するのだが、面倒臭いのでそこははしょって、私は、じゃあそこでいいよ、と、言った。宿は遠いから、「タクシー」に乗って行けと言う。
 別れ間際、ねえさんはしきりと、いつまでこの島に滞在するのか、島から出て行く船の切符は持っているのか、持っていないならうちで買いな、と、言った。帰りの切符は持っていない、いつ帰るかなんてそんな先のことは分からない、と、答えると、じゃあ帰る日が決まったら、うちに切符を買いにきな、と、言った。ああ、そうするよ。そう言って我々は旅行代理店を出た。
 島の「タクシー」は、ただのピックアップトラックだった。かろうじて座席は据え付けてあるが、屋根はない。山岳坊主の村(*1)と何ら変わりはない。
 たぶん、すべてのものが著しく不足しているのだろう。造りかけの宿らしき建物、乗用車やピックアップを流用した即席タクシー。伸びている需要に、供給がおっつかないのだろう。その象徴とも言えるのが、港のセブンイレブンであろう。細道をどうにかする前にセブンイレブンが上陸してしまったのだろう。
 それにしても道が悪い。まさに「悪路」だ。悪路の見本を出してみろと言われたら、ハードリンへと続くパンガンの細道を出すか、それともこの道を出すか、悩むところである。道幅や舗装状況ではタオの方がひどいが、勾配のひどさではパンガンが圧勝だ。
 気づけば「タクシー」は道なき道をてこてこと進んでおり、その状況に立たされてようやく私は大事なことを思い出した。
 セブンイレブン!!!
 こんな道なき道の先にある宿にチェックインしてしまったら、この先どこで生活物資を補給すればいいのだ。この先に店なんてあるのか。買い物の度に「タクシー」に乗って港へ行くのは嫌だぞ。
 ああ、港のセブンイレブンに寄っときゃよかった・・。
しかししばらく進むと悪路はなおらないが沿道が少し開けた景色に変わり、港の周辺ほどではないが、外国人目当てにつくられたと思われる商店がちらほら見えはじめた。そこで「タクシー」は止まった。
 よかった、この景色なら蚊取り線香とタバコぐらいは手に入りそうだ。
 肩をなでおろしながらタクシー代を払って、宿の敷地内へ向かって歩いた。しかし残念ながら700の部屋は空きがないと言われ、900の部屋にチェックインすることになった。正直部屋は900にしてはたいしたことはなかったが、小さいながらもプールがあり、プールのすぐ数メートル先には海があった。恐る恐る浜に出てみると・・。
 !!!!!
 そこには白い砂浜とエメラルドグリーンの海面が広がっていた!!!
 そしてさらには、宿には食堂と売店も併設されており、タバコ、石鹸、蚊取り線香、サンオイル、絵葉書、切手・・。多少割高ながらも必要物資はすべてそろうのだった。考えてみれば最低700の宿なのだ。フロントで手に入るものは水だけという一泊100のばか旅社と一緒にしていた自分こそがばかであった。
 そして、さらに、売店に併設されていたのは・・。
 旅行代理店!!!
 ここの宿を紹介してくれた代理店のねえさんが、かくもしつこく帰りの切符を買え!とすすめた理由はこれだったのか。これじゃ誰もわざわざ「タクシー」に乗って港まで切符を買いに行くはずがない。たぶん港の代理店よりは多少割高なのだろうけど、それにしたって港まで行く手間を考えたら、何ともばからしい。
 そんなこんなで、我々も帰りの切符は宿で手配してもらおうと決めた。
 ちなみにタオを訪れる観光客は、外国人とタイ人が95:5といったバランスだ。ようするに、タイ人客は皆無に等しい。たまにいても、絶対にかたぎじゃなさそうなおやじの一団とか、あやしげなインド系のファミリーぐらいしか見かけない。
 というのは、この島もまた不良ガイジンに乗っ取られているのだ。ゆえに、タオに行く、もしくは行ってきたと言っても、大半のタイ人は格段うらやましがることもないし、タオはどうだった?と、情報を欲しがることもない。これからタオに行くんだけど、タオってどうなの?なんて聞いたところで、タオなんか治安は悪いし、物価も高いし、飯もまずい、どうせ行くならプーケットかサムイに行け、と言われてオシマイである。
 ちなみにここでいう治安の悪さというのは、バンコクや東京で言われるような治安の悪さではない。何せ数年前までは電気が来ていなかったというほどの田舎なのだ。こんなところで都市型の犯罪が頻発するとは考えづらい。だから、ここでいう治安の悪さというのは、ドラッグのことである。
 不良ガイジンが集まる場所に必ずと言っていいほどついてくるもののひとつに、ドラッグがある。だから友人知人どもは、そういったドラッグ関係のトラブルには気をつけろよ、と、そう言っているのである。
 君たち、マリファナはやるの?
 タオに着いて幾日目かの朝方、宿の食堂で飯を食っていると、食堂のにいさんが声をかけてきた。彼は人懐こい人柄らしく、チェックインしたその日から、こうしてときどき声をかけてくる。タイに着いたばかりでひどいほどにタイ語を忘れてしまっているので、こうして軽い会話につきあってくれる人がいるというのはありがたい。しばらく話していれば、徐々にだが思い出してくるものだ。
 語学というのはチャリンコに似ている。しばらく乗らずにいると調子が出ないのだが、数十分もこいでいれば徐々に感覚がよみがえってくる。
 で、マリファナは、やるの?
 やらない。
 そうか、やらないのか。
 うん。
 そこのダイブショップには大勢の日本人が来ていて、みんなマリファナが大好きだよ。俺の知っている男(日本人)はギターが上手くて、そいつはマリファナをキメて、一晩中歌っているんだ。
 しばらくいれば何でも出てくるものである。もしここで「やる」と答えれば、売っている場所を教えてくれたのだろう。もしくはにいさん本人が売ってくれるのかも知れない。
 しかしここは不良ガイジンのメッカなのである。みんなやっているから大丈夫だなんてタカをくくっていると、警察官が空から降ってきかねない。だからその話は聞かなかったことにした。
 しかし今回は宿のランクを上げているので、宿の中を見る限りではみんなのいう「治安の悪さ」を感じることはない。ここの宿の客は西洋人の家族連れとアベックがほとんどで、ときどきタイ人の家族連れやグループがチェックインするといった感じだ。タイ人客はさすが悪評高いタオまで来ようというだけあって、一癖ありそうなのばかりだが、外国人客は全体に上品でおとなしい。ただ、ホアヒンに比べると年齢層は若く、家族連れといっても若い両親と小さな子供だ、アベックも年季の入った老夫婦ではなく、20-30代の若い人が多い。ホアヒンにもこの世代の西洋人がいないこともないが、比べるとタオの西洋人の方が華やかで垢抜けたかんじの人が多い。ホアヒンの若い西洋人は押しなべて地味であり、数学クラブみたいなのばかりだった。
 それにしても、タイの観光地って何なんだろう?
 不良ガイジンが漁船をチャーターして上陸して、秘境の「秘密の地図」が類から友に受け渡されて、公共の移動手段やまともな宿泊施設が整って・・って、タイ人はいったいどこで何をしているんだ???
 多くの一般タイ人は、カオサンもピピもパンガンもタオも、好きじゃないと言う。前述の通りに、治安は悪いし、飯はまずいし、物価は高いし・・。というのが、彼らの言い分だ。しかしそれについて、ここは俺たちの国なのに、何で外国人がのさばっているんだ?何で俺たちタイ人が自由にできないんだ?と声を荒げたのは、ホアヒンの不良ぐらいのもんである。多くのタイ人は、好きじゃないから近寄らない、で、終わってしまう。
 もしこれが日本だったらどうだろう。
 もし日本にも多くの外国人観光客が来て、とある地域を不良ガイジンに乗っ取られてしまったら、どうだろう。
 おそらく多くの日本人は不愉快に思い、追い出しにかかるだろう。もちろん金の動く魅力から金儲けに参戦する人も出るだろうが、一般日本人の心中はおだやかではないと思うのだ。
 記憶に新しい事件では、北海道の不良ロシア人事件というのがあった。ロシア船籍の船が入る北海道の港町で、町を上げて不良ロシア人の追い出しにかかり、社会問題になったことがある。また、外国人労働者たちの銭湯での非常識な行動に憤慨した銭湯が「外国人お断り」の貼り紙をあげたというのも記憶に新しい話である。
 誰だって、自分の生活を守りたいだろう。しかし、多くのタイ人は闘わない。その場所を還せとか、そこからただちに出て行けなどと、騒いだりはせずに、あっさりとその場所を明け渡してしまう。ここは外人さんの場所だよ、と。もちろん、行き過ぎれば最終的には警察だの軍隊が乗り出してくるのだが、それ以前に民間レベルで動くということはまずないように見える。
 タイ人は「ここは自分の場所ではない」と思う場所を、視界にさえ入れない傾向がある。大学教授や医者にタイの売春問題について問いかけると、あの人たち(売春婦、下層階級者)のことは私には関係ない、と言われる、というのは有名な話である。同時に庶民も上流階級者の生活には興味を示さない、と言われる。高級デパートを見ても、いつかここで買い物をしたいとか、金持ちはこんなところで買い物ができていいなとか、金持ちばかりが贅沢をしてずるい、などと思うこともないという。ここはお金持ちの場所だから「関係がない」と思うというのである。
 なるほど、そうなのかもしれないと、タイ人の不良ガイジンスポットに対する意見を聞いていると感じる。彼らは不良ガイジンスポットを「好きじゃない」というよりは「関係ない、興味がない、あすこは外人さんの場所」と思っているように感じる。
 こういった気質がこの国をよく言えば「平和」に、悪く言えば「弱く」しているのだろう。確かに逃げてしまえばその場は平和に収まるが、もしも占領地区が増え続けたらそのうちに暮らす場所がなくなってしまう。それでも所詮は観光客のやることだから大した被害ではないが、これがもし軍隊だったら平和でいいね、というわけにはいかない。
 東南アジアには長い植民の歴史を持つ国が多いが、それもこの国民性を見ていると、何となく納得できるのだ。侵略者側の悪ばかりがクローズアップされがちな話題だが、侵略される側がへなちょこであったのもまた事実なのだろう。ここは外人さんの場所、で、明け渡していたらあっという間に国土なんか消えてなくなってしまう。
 タイはこの界隈では唯一独立国であった希少な国だが、それだって第二次大戦期には名目上の独立国でしかなく、事実上は植民地に近いものである。国土を細かく細かく、チェンマイをあげるから王都(バンコク)だけはとらないで、ハジャイもあげるから王都だけは・・。という、いわゆる「朝貢外交」によって王都のみを守ってきた、というのが、当時のタイである。
 東南アジア人は軍隊に対してでさえこれなのだ。
 その点、銭湯のマナーごときで外国人を追い出しにかかる日本は、平和には縁遠い国である。しかしその程度のことでもすぐに騒いで追い出してしまう、その繰り返しが日本の国土を守ってきたのもまた事実なのだろう。
 さて。それほどまでに自分たちには関係のない、まるで存在しないかのようにとらえられている不良ガイジンスポットだが。これが徹底的に開発が進んで、空から警察官が降ってきて不良ガイジンが一掃されると、タイ人はまたその場所に戻ってくる。日本軍がアンコールワットを取り返してやったそのとたんに、タイ人はアンコールワットを目指すのである(*2)。
 だから、いつかこの島がもっともっと人気になって、天から地まで宿が選べるようになって、立派な道路と「屋根付き」のタクシーが整備されて、ディスコや土産物屋がたくさんできて、空から警察官が降ってきて不良ガイジンが一掃されて、ここが不良ガイジンスポットと呼ばれなくなったら、この島にもタイ人の旅行者が来るのだろう。
 そのときはきっと、浜を「おんま」がぱっぱかぱっぱかと歩くのだろう。海辺の鍋パーティーも盛大に行われるのに違いない。貸し浮き輪屋も大繁盛だ。
 だからたぶん、多くのタイの秘境的観光地は外国人が開発してきたのだろう。いまやタイ人にも人気のハネムーンスポット、プーケットのカロンビーチだって、うっとりおばさん(*3)が上陸したころにはこんなだったのかも知れない。道なき道をタクシーもどきでひた走り、セブンイレブンにがっかりしたり喜んだりして、たどり着いたのかも知れない。
 けれど世の中ってのは皮肉なもので、ジャングラァァ!と瞳を輝かせるうっとりおばさんを含む多くの外国人がプーケットに押しかけ、彼らの訪問が増えるとともに島には宿ができ、彼らを搬送するためのタクシー業ができ、またタクシーを走らせるための道路ができ、いつの間にやら便利が整い、気が付けば押しも押されぬハネムーンスポットになっていた・・のじゃないのかな。
 そんなわけで、我々も今、タオ島開発に一役買っているところである。この島にはすでにセブンイレブンは上陸しているようなので、次は何を上陸させようか、まずは道路を道路と呼べる状態にするべきかな。
 タオではこれといったイベントもなく、毎日がとても単調に、けれど平和にときがすぎていった。
 タオに限ったことじゃない、海にいると何も変化が起こらない。毎日がとてもとても、単調だ。私はマリンスポーツも特にやらないので、飯を食って、海を眺め、ときどきざぶんと海につかって、日が傾いてきたら宿に戻って、水を浴びて寝てしまう。海での生活はただこれだけの繰り返しだ。どこに観光に行くわけでもない。しかしそれでも、海は楽しい、海は飽きない。ここから一歩も出たくない。そう思う。
 ずいぶんと前、茨城の海水浴場で一組の家族連れを見かけた。家族連れは傘やゴザなどの「海セット」を抱えて浜を歩いていた。海セットを設置する場所を探しているようだった。そのとき、子供が今にも泣きそうな声で叫んだ。
 早くしないと泳ぐ時間がなくなっちゃうよ!!!
 それを聞いた私は腹を抱えて大笑いをしたのだけど、けれどその気持ち、今ならわかる。今もし私に町の雑貨店までタバコを買いに行ってくれないかなんて言ったら、きっと私は泣きそうな声で叫ぶだろう。
 そんなことをしていたら海で遊ぶ時間がなくなっちゃうじゃないか!!!
 カロンビーチのうっとりおばさん、映画「ザ・ビーチ」、海に来る前はくだらない、と、思ったし、今でもくだらない、と、思ってはいるけど、でも今は、うっとりおばさんや、「ザ・ビーチ」の監督の気持ちが少しわかる、そんな気がする。



■山岳坊主の村(*1)
 チェンマイ在住の知人J君の故郷の村のこと。詳細は10_山の子を参照。


■タイ人はアンコールワットを目指す(*2)
 太平洋戦争前夜、タイ政府がフランスに割譲した領土(アンコールワットを含む現カンボジア領の一部)を返還しろとフランスに喧嘩を売るが結果は惨敗。そこで調停に乗り出したのが旧日本政府。日本政府の強引な調停によりアンコールワット周辺は一時(いちじ)タイに返還されることになる。
 ・・が、後の太平洋戦争で日本が連合軍に負けたため、タイ政府は再び領土をフランス(連合国側)に返還することになる。後に独立運動が起こり、ポル・ポト時代を経て現カンボジアにいたる。


■カロンビーチのうっとりおばさん(*3)
 旧地球の歩き方に掲載されていた読者投稿にただならぬうっとり旅行者がいたので、そう名づけた。以下はその原文。。。

> どこからか聞こえてくるタイ民族音楽のような静かで柔らかな響きで目が覚める。モーツアルトの曲で目覚めるような気分でゆっくりと起き、蚊帳をまくり、外に出てみると、やっと薄明るくなった頃である。近くのお寺で明け方から小僧たちがお経の勉強をしているのだ。カロン・ビーチの一日は、そのお経の響きとともに始まる。
 小鳥のさえずり、わずかな潮風でなびくさらさらというココナツの葉ずれの音を聞きながら、まだ誰もいない早朝の砂浜を散歩する。ときおり、朝の木々の香りや水田の匂いが、潮の香りと混じって運ばれてくる。浜辺では小さなカニが、波に洗われながら忙しそうに動き回っている。朝の早い村人に出会うと、両手を胸に合わせて「サワディカー」と朝のあいさつ。

 八時頃になると、日が昇り暑くなり始める。冷たいシャワーを浴びた後、パパイヤ、ココナツシロップかけパイナップルケーキという南国の味がいっぱいの朝食をとる。トースト、ベーコン、ポテトと洋風もあるが、私はタイ朝食かパンケーキが好き。いずれにしても300円ほどである。
 ゆっくりと朝食を済ませた後、4km以上も続く真っ白の砂浜に寝そべる。周りはほとんどヨーロッパ人。トップレスをはじめ、全くのヌードで甲羅干しをしている人もいるが、別に変な感じはしない。むしろここでは自然と溶け合っている。紺碧の海を前にして、背後には遠く水牛が寝そべり、その向こうには、ココナツやバナナの木が茂る起伏の多い山々が見える。私は静かに目を閉じて、自分も波とともに消えてしまうかのような錯覚におちいる。

 昼頃になると、もう暑くて浜辺にはいられなくなる。そうなると昼食である。プロパンガスコンロ一つという簡単なレストランで、焼きめし、タイスープ、フルーツなどを食べる。それもなぜか300円ぐらい。
 午後三時頃までそこに居座り、ココナツの葉の間から見える真っ青な海を眺めながら、色々な国の人たちと楽しくダベる。独語、仏語、伊語、英語、耳慣れないスウェーデン語など、あらゆるヨーロッパ語が聞こえてくる。私のテーブルでも、それぞれの国の訛りを持った英語が、笑いとともに飛び交っている。日本で高い月謝を払って語学講座に通うよりは、ずっと楽しいし、皆とすぐ友達になることができる。

 午後にはまた浜辺に戻り、本を読んだり、昼食時の会話を続けたりしながら、甲羅干しを楽しむ。真っ赤な夕日が水平線に沈み、西の空全体が赤く染まるのを見とどけると、ほてった体に冷たいシャワーを浴び、夕食のためにできるだけめかしこむ。とはいっても、現地で買った2000円のコットンドレスに着替えるだけ。夕食の席では、持ち合わせのわずかな服をみんなうまく着こなし、毎日、できるだけ違ったように見せようと工夫している。
 夕食のメニューは、その日にとれたロブスター、タイ、ムール貝、イカなど、新鮮な魚介類がいっぱい。何を食べようかいつも迷う。1人1000円もあれば食べきれないほどだ。タイ料理は香辛料がデリケートに使われ、何となくしょうゆ味のような感じで、日本人の味覚にはよく合う。安くておいしいので、ついつい食べ過ぎてしまう。食後は、ほんのり甘味のあるメコンウィスキーなどを飲みながら、また賑やかな国際親善パーティー。

 こんなノンビリとした休暇を一週間も過ごすと、もう2〜3ヶ月も居るような気がしてくる。私などは、現地の人からよくタイ語で話しかけられ、あわてて「ニップン!ニップン!」と答える始末。
 ここカロン・ビーチは、バンコクから南へ900kmのプーケット島にあり、飛行機ならバンコクから約一時間で行ける。空港からこの南国の楽園まで、さらに車で一時間半。あまり観光化していないので、宿泊のほとんどがツインで一泊1000円ほどのバンガローだ。ココナツの葉で葺かれた屋根に竹で編まれた壁、中は水シャワー・トイレ付きで、木のベッドにマットレスを敷いたシンプルなもの。むろん、鏡やタンスはないが、ここではそんな物は必要ない。まるで竹かごの中に居るようなもの。心地よい風が、たえず入って居心地がいい。
<略>

 私は静かで素朴な美しさを残すこのカロン・ビーチがすっかり気に入ってしまい、帰りぎわに早くも来年の冬の予約をしてしまった。

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